ここ最近,自分の中で起きている変化について考えている。
以前の私は,「リベラル」という言葉に対してかなり肯定的なイメージを持っていた。
『多様性を尊重し,権威を疑い,複数の視点から物事を見る』
そうした姿勢は,閉じた価値観よりも健全で,より成熟した思考態度のように感じられたからだ。そして今もなお,リベラルアーツそのものには大きな価値があると思っている。
分野を横断しながら,一つの問題を歴史・倫理・経済・文化など多角的な視点から物事を見つめること。簡単な正解に飛びつかず,問いを保留し続けること。異なる立場を比較しながら,自分の考えを組み立てること。
そうした知的態度は,むしろ今の時代にこそ必要だと感じる。
だからこそ,少し皮肉な言い方になるのだけれど——最近の自分の変化は,リベラルアーツ的思考の“実践結果”なのかもしれない。
多角的に考える習慣が身についたからこそ,過去に自分が受けた教育の中に,実はあまり多角的ではなかった部分があったと気づき始めている。
目次
高校時代の「キリスト教概論」
私が通っていた高校は,帰国子女の生徒も多く,文化的背景や価値観の異なる人たちが自然に共存している学校だった。
自由な校風が特徴で,生徒の自主性が尊重される空気があり,「こうあるべき」という窮屈さは比較的少なかったように思う。
多様性を受け入れることそのものが,学校文化の一部になっていた。
そんな環境の中で,印象に残っている授業の一つが
キリスト教概論,通称「キリ概」だった。
「愛とは何か」を議論したり,聖書のたとえ話から社会の仕組みを考えたりする,道徳と教養教育の中間のような授業である。
印象的だったのは,高校2年のときに扱われた人工中絶のテーマだ。
授業では,中絶手術中の胎児の様子をエコーで映したドキュメンタリーを観た。
器具が近づくと胎児が逃げるように動く。元々,年間何十〜百件と中絶手術を行なっていた医師が(確かアメリカ人たった),エコーの映像で手術中の胎児の挙動を見てしまったら,それ以降できなくなったというものだった。
ドキュメンタリーとしても,実にドラマチックな展開である。
教室には重い空気が流れ,泣く生徒もいれば,途中で退出する生徒もいた。
私自身も大きな衝撃を受けた。
そして当時の私は,かなり直接的に受け止めた。
「中絶はよくないことだ。命は守られるべきだ。」
そんな風に。
しかし,自分自身が妊娠・出産を経験して初めて,その認識は大きく揺らぐことになる。
現実は、そんなに単純ではない。
今振り返ると,違和感の本質は別のところにある
大人になった今,あの授業を思い返して感じるのは,人工中絶というテーマを扱ったこと自体への違和感ではない。
むしろ,生命倫理として非常に重要なテーマだったと思う。問題は,その授業設計にあったのではないかと感じている。
ショッキングな映像によって強い感情を喚起する。けれど,その後に十分な時間をかけて,
- バースコントロールという考え方
- アフターモーニングピルなどの緊急避妊による,中絶以外の選択肢
- レイプによる妊娠だったら?それでも中絶は悪?
- 学生の妊娠がもたらす現実的負担(教育機会の損失や経済面)
- 経済的問題
- 母体の健康リスク(もし,妊娠高血圧症や重症妊娠悪阻を患ったら?)
- 障害児育児の現実とその課題
- 子育て環境
といった多角的な論点を議論した記憶が,ほとんどない。
もし教育の目的が「考える力を育てること」にあるなら,
感情を激しく揺さぶった後こそ,
複数の視点を並べて熟議する時間が必要だったはずだ。
そこが欠けたとき,授業は“問いを開く場”ではなく,特定の結論へ感情的に近づける構造になりやすい。
教師側のイデオロギーの意図があったにせよ・なかったにせよ,結果として生徒は特定のイデオロギーに巻き込まれてしまう。
未熟さと教育設計,その両方
もちろん,当時の私自身が高校生だったことも大きい。
感受性が強く,まだ思考のフレームも十分育っていない時期に,衝撃的な映像を見れば,感情が先に動くのは自然なことだ。だから,受け手として未熟だった側面も確かにある。
ただ同時に,その発達段階だからこそ,教育側にはより丁寧な設計が求められるとも思う。多感な時期の生徒に強い刺激を与えるなら,なおさらその後の対話が重要になる。
そう考えると,個人の未熟さと教育方法の構造,その両方が重なっていたのだと思う。
私の中で起きている変化の正体
最近,自分の価値観の変化を「保守化しているのかな」と感じる瞬間もある。でも,こうして整理してみると,実際には少し違う気もしている。
以前よりも,どの立場の主張であってもその前提条件を確認したくなった。
- どういう視点の発信か
- 一次情報はどういう内容か
- 語られていない背景は何か
- 他の視点はあるか
- 結論が急ぎすぎていないか
そうやって,一度立ち止まる癖がついた。
だからこれは,イデオロギーとしての右・左の話というより,もう少し慎重に考えたくなった,という変化なのかもしれない。
親としてできること
今年,長女が小学生になる。これから学校や友人関係の中で,さまざまな価値観に出会っていくだろう。ドイツでの学校生活,驚くような価値観に出会うことも多々あるだろう。
そのとき親として目指したいのは,思想的に中立でいること,というよりも,多角的に考える力を育てることだと思っている。
一つの意見に出会ったとき,別の立場から見るとどうだろう。
反対意見には何があるだろう。もし条件が違ったら結論は変わるだろうか。
そんな問いを,一緒に深掘りしていく。
私たち親もディスカッションに加わり,あえて異なるアングルから質問を投げる。
考えを揺さぶる。視野を広げる。
答えを与えるより,考えるプロセスを支える。
それが,今のところ親としてできる一番誠実な関わり方のように思っている。
もしかしたらまた考えは変わるかもしれないけれど,その都度,その時点での最善を模索し続けるしかないのだと思う。
あわせて読みたい…
大人になって気づいた「勉強の意味」
学生時代は「何の役に立つの?」と思っていた勉強。大人になって点と点が線でつながる楽しさを知った。タラントンのたとえやビタミンの仕組みを通して,科目を超えて学ぶことの本当の意味を考える。






Leave a Reply